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語り部:勝司さん(80歳)
昭和27年(1952年)9月。
狭山池の東側に「狭山競艇場(競走場)」が設けられました。
開催当初はとくに客が多く、エンジンの音や競争のアナウンサーの声が自宅(半田6丁目)にも聞こえ、風向きによっては、とても大きく聞こえる時がありました。
芸能人の松居一代さんのお父様で、競艇選手の松居修選手も出走されていました。
競艇に訪れる人は地元の狭山町の人や、北野田・堺東方面より来る人が多く、場内には3,000人位入る観覧席がありました。
食事する所は「南海グリル」1軒。
競艇場には予想屋が8軒あり、レースとレースの間には予想屋の大きな声が聞こえていました。
6ヶ月位訓練を受けて、びわこ競艇場にある試験会場で試験に合格すれば選手になれました。
狭山池出身の選手は、第1期5人・第2期5人の計10人が狭山競艇場で走っていました。
この時、先生は生徒を見つけてもその場では注意せず、次の日(月曜日)に学校のホームルームで注意されました・・・。
※親が予想屋をしている子供は、仕事の手伝いの為、注意なしでした。
私の親は日曜日に舟券を買っていたので、出走表を競艇場の入口までよくもらいに行っていました。
実はこの狭山競艇で、舟券を買って大負けしている狭山町の人が多く存在し、畑や牛を売ったりして、家財も無くした人もいました。
その為、狭山では「パチンコ遊技場等又はゲームセンター」は、市の条例で作れなくなったといわれています。
そして昭和30年頃、徐々に客が減少・・・
昭和31年(1956年)1月より大幅な赤字が続き、同年4月に狭山競艇場は閉鎖されました。
その後は、住之江競走場(現在の住之江競艇場)へ移転されました。
勝司さん、ありがとうございます(^^)
勝司さんによる「狭山競艇場」の昔話、②【昭和27年開設】狭山池にかつてあった「狭山競艇場の状況」も、是非あわせてご覧くださいね。
※当記事に掲載されている狭山競艇場のお写真は、狭山池土地改良区様の許可を得て掲載しています。
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