ハートマークを押してくださいね(^^)/
※ハートマークを押すと
当記事が『みんなの「いいね」記事』に投票されます。
当記事は、東池尻会館にて行われた「東池尻 昔語り 第一回(平成30年3月25日)」において「小谷 安之祐(こたに やすのすけ)」さんが話された内容です。
目次
戦時中の話(20歳の頃)
![【郷土誌ひがしばた①】東池尻昔語り第一回「昭和初期の東池尻の想い出」-(6)](https://osayama.com/wp-content/uploads/2020/11/a7dae7f017411faf93586a0a3ea61a52.jpg)
狭山駅(西出口)よりハーモニータウン方面
![](https://osayama.com/wp-content/uploads/2020/11/91fb912a5e9991d93124e9c7b502e196.jpg)
大阪狭山市ハーモニータウン
その富士造機が軍需工場の時代には、アメリカのB29爆撃機や艦載機グラマンの爆撃の標的となっていました。
B29がチラチラする銀紙のようなものを、まき散らかすのを見たことがありますが、これは日本軍のレーダーを乱し、高射砲の目をくらますためのものだったのでしょう。
また、河内長野駅の竪樋(たてとい)に、弾の跡が残っていたことが私の記憶に残っています。
![竪樋](https://osayama.com/wp-content/uploads/2020/11/3e4ac9cfd666f59f1730df61c92cdd8b.jpg)
竪樋(たてとい・たてどい)とは、屋根の雨樋で溜めた雨水を地面まで垂直方向に流す装置のこと。
![](https://osayama.com/wp-content/uploads/2020/11/higashibata-150.jpg)
南海高野線の話(戦前 10歳頃)
![大阪狭山市駅2-(1)](https://osayama.com/wp-content/uploads/2020/11/ed38fe9012839ba233481cadb056453b.jpg)
大阪狭山市駅
その後、昭和5年(1930年)に高野山電気鉄道が高野下~極楽橋駅間と鋼索線(ケーブル)で高野山まで開通させました。
高野山電気鉄道は後に、南海電気鉄道(南海鉄道の子会社)となりました。
![](https://osayama.com/wp-content/uploads/2020/11/higashibata-150.jpg)
※鉄道が電化(鉄道の動力を電気にすること)される以前は、蒸気機関が使われていました。
![大阪狭山市駅3-(10)](https://osayama.com/wp-content/uploads/2020/11/18e5c0eb7db2b3d6401b81e6f6a8d0d8.jpg)
大阪狭山市駅から金剛駅方面
「上がり」と「下り」を、別々の線路で使用しているのが「複線」
鉄道は日常生活に関連して、必要欠くことのできないものでした。
私が幼少の昭和10年頃には、高野線は現在のように客車がありましたが、その客車より荷物車の方が多く運行していました。
荷物車は「でんかん(電機機関車)」と、私たちは呼んでいました。
現在の大阪狭山市駅(その前の名称は狭山遊園前駅)は、大阪高野鉄道の頃「河内半田駅」という名称でした。
河内半田駅の次の駅は滝谷駅、滝谷駅の次は河内長野駅でした。
金剛駅・千代田駅ができたのはその後です。
大阪高野鉄道は、明治31年(1898年)大小路駅(現在の堺東駅)~狭山駅(現在も同じ名称)間で開通しました。
その間には西村駅(現在の初芝駅)だけありました。
大小路~狭山駅間が開通し、まもなく狭山~河内長野間が開通しました。
レンガ構造のアーチ橋について
![「煉瓦造暗渠群(れんがぞうあんきょぐん)」南海高野線(狭山駅~大阪狭山市駅間)](https://osayama.com/wp-content/uploads/2020/11/4e54fed253a23b9b375938f21dc9d422.jpg)
南海高野線(狭山駅~大阪狭山市駅間)「煉瓦造暗渠群(れんがぞうあんきょぐん)」
これは高野線の開業当時に築造された古いものであり、東池尻ではこの構造物を暗渠(あんきょ)と呼んでいます。
葛西神社のこと
現在、狭山藩陣屋跡の案内板が、府道198号線河内長野美原線の狭山東小学校北約300メートル地点に建てられています。
※ミニ公園、ポケットパークに建てられている。
江戸時代、このあたりには北条氏の治める狭山藩の陣屋がありました。
![](https://osayama.com/wp-content/uploads/2020/11/higashibata-150.jpg)
明治の廃藩置県後、その上(かみ)屋敷跡に、もと北条家の家臣たちによって、北条氏の先祖の霊を祀るために葛西神社が造られ、地区では通称「弁天さん」と親しんでいました。
少年時代の私たちの喜びは、葛西神社境内で兵隊ごっこをして遊ぶことでした。
地区で「弁天さん」と呼んだわけは、主祭神として市杵島姫命(いちきしまのひめのみこと)をお祀りしてあったのですが、本地垂迹(ほんじすいじゃく)によると、市杵島姫命は弁財天(弁天)にあたるためです。
※古代インドの女神です。
桑と蚕(かいこ)
![](https://osayama.com/wp-content/uploads/2020/11/3ac6129f803054f64150af1c59971a72.jpg)
参考:桑の実
桑の木は、府道の東側、笠原さん宅の向かい側、東小学校と南海高野線ガードの中間あたりにありました。
※笠原さんは、旧藩士の家系で藩医であった。
![](https://osayama.com/wp-content/uploads/2020/11/d037b5c763ef6adf44323ec6bba6c1a3.jpg)
参考:蚕の繭
![](https://osayama.com/wp-content/uploads/2020/11/kaiko_mayu.jpg)
蚕のエサが桑の葉
桑畑は、現府道の東側にありました。
前述の桑の木がその名残です。
【注記】「狭山藩陣屋跡」について
府道198号線、狭山東小学校より北に約300m、府道西側に
「狭山藩陣屋跡」と刻された石碑があります。
![上屋敷](https://osayama.com/wp-content/uploads/2020/11/f655cd566f9f4bf573c87c41cafcd8b9.jpg)
狭山藩陣屋上屋敷
明治の頃には葛西神社が造営され、昭和期には狭山幼稚園(現狭山東幼稚園の前身)となりました。
![下屋敷](https://osayama.com/wp-content/uploads/2020/11/374b8023d2e4c55d87ad56b33b1c07b7.jpg)
狭山藩陣屋下屋敷
下屋敷はいわば、殿様の私邸と考えたらよいでしょう。
狭山藩は小藩のため、城は持てませんでした。
「陣屋」つまり藩庁を持つにとどまりました。
上屋敷は当時「池尻村」、下屋敷は「半田村」でした。
東池尻地区会 区長
山村 歳幸
文化財産委員会
岡本 典久・鳥山 喜代治・鳥山 勉・森田 勇・山村 茂樹
表紙絵
市川 敬一
![大阪狭山びこ提供サービス一覧](https://osayama.com/wp-content/uploads/2023/07/55fc7a3bd7e06cc557349c4dddba6434.jpg)
ハートマークを押してくださいね(^^)/
※ハートマークを押すと
当記事が『みんなの「いいね」記事』に投票されます。
掲載内容はできる限り正確に保つように努めていますが、最新の情報と異なる場合があります。
![](https://osayama.com/wp-content/uploads/2020/11/fff947101019a2791e935a19b84dddb4-1-486x290.jpg)
この記事が気に入ったら
いいねしよう!
大阪狭山市の最新情報をお届けします。
あわせて読みたい
ひと味違う防災セミナー!「楽しく学ぶアクティブ防災セミナー ~みんなそろっておいでな祭~」が2024年8月4日に開催!
【2024年】大阪狭山市イベント情報まとめ(随時更新)
みんなで考えよう!やってみよう!「第32回 市民・団体 交流会」が市役所南館で2024年8月24日に開催!
【期間限定!割引キャンペーン実施中】大阪狭山びこの「広告掲載サービス」がリニューアルしてパワーアップ!
【2024年6月】大阪狭山びこ「人気記事ランキング 」トップ10!公式SNSのフォロワー数もお知らせ
【陶器山通り沿い】パスタ&オムライス 「ルピナス」にランチを食べに行ってきました
【狭山池の夜空に花火が】キッチンカーも出店!「桜まつり サマーブロッサムナイトin狭山池2024」が2024年8月1日に開催!
【無人店舗】2023年8月20日にオープンした「訳ありB級 お持ち帰りグルメ」をご紹介
今もそのように発音する人がいます。