【郷土誌ひがしばた①】東池尻昔語り第一回「昭和初期の東池尻の想い出」

ABOUTこの記事をかいた人
東池尻地区会(東池尻文化財委員会)

大阪狭山市東池尻地区に配布された「郷土誌 ひがしばた」の内容を、東池尻地区会(東池尻文化財委員会)様の許可を得て掲載しています。※紙媒体からWEBサイトへの転載にあたり一部、びこ編集部にて編集・補足しております。ご了承ください。※カラー写真(イラスト)は、大阪狭山びこ編集部が追加掲載したものです。

郷土誌ひがしばた
当記事は、東池尻会館にて行われた「東池尻 昔語り 第一回(平成30年3月25日)」において「小谷 安之祐(こたに やすのすけ)」さんが話された内容です。

戦時中の話(20歳の頃)

【郷土誌ひがしばた①】東池尻昔語り第一回「昭和初期の東池尻の想い出」-(6)

狭山駅(西出口)よりハーモニータウン方面

現在、南海狭山駅のそば北西に新興住宅地(ハーモニータウン)がありますが、その前には富士造機株式会社の工場がありました。

大阪狭山市ハーモニータウン

※戦後、富士車輌株式会社に改称、昭和61年(1986)閉鎖し、滋賀県守山へ移転。

その富士造機が軍需工場の時代には、アメリカのB29爆撃機や艦載機グラマンの爆撃の標的となっていました。

B29がチラチラする銀紙のようなものを、まき散らかすのを見たことがありますが、これは日本軍のレーダーを乱し、高射砲の目をくらますためのものだったのでしょう。

 
また、河内長野駅の竪樋(たてとい)に、弾の跡が残っていたことが私の記憶に残っています。

竪樋

竪樋(たてとい・たてどい)とは、屋根の雨樋で溜めた雨水を地面まで垂直方向に流す装置のこと。

 

ひがしばた
東池尻では樋「とい」のことを「とゆ」と発音していました。

今もそのように発音する人がいます。

南海高野線の話(戦前 10歳頃)

大阪狭山市駅2-(1)

大阪狭山市駅

大正11年(1922年)現在の南海高野線は、南海鉄道が大阪高野鉄道・高野大師鉄道を合併し、南海鉄道高野線となりました。

その後、昭和5年(1930年)に高野山電気鉄道が高野下~極楽橋駅間と鋼索線(ケーブル)で高野山まで開通させました。

高野山電気鉄道は後に、南海電気鉄道(南海鉄道の子会社)となりました。

 

ひがしばた
鉄道はその頃、電化されていました。

※鉄道が電化(鉄道の動力を電気にすること)される以前は、蒸気機関が使われていました。

 

大阪狭山市駅3-(10)

大阪狭山市駅から金剛駅方面

昭和12年(1937年)には、狭山・金剛駅間が複線となっていました。

「上がり」と「下り」を、一つの線路で使用しているのが「単線
「上がり」と「下り」を、別々の線路で使用しているのが「複線

鉄道は日常生活に関連して、必要欠くことのできないものでした。

私が幼少の昭和10年頃には、高野線は現在のように客車がありましたが、その客車より荷物車の方が多く運行していました。

荷物車は「でんかん(電機機関車)」と、私たちは呼んでいました。

大阪狭山市駅2-(5)
現在の大阪狭山市駅(その前の名称は狭山遊園前駅)は、大阪高野鉄道の頃「河内半田駅」という名称でした。

河内半田駅の次の駅は滝谷駅、滝谷駅の次は河内長野駅でした。

金剛駅・千代田駅ができたのはその後です。

大阪高野鉄道は、明治31年(1898年)大小路駅(現在の堺東駅)~狭山駅(現在も同じ名称)間で開通しました。

その間には西村駅(現在の初芝駅)だけありました。

大小路~狭山駅間が開通し、まもなく狭山~河内長野間が開通しました。

レンガ構造のアーチ橋について

「煉瓦造暗渠群(れんがぞうあんきょぐん)」南海高野線(狭山駅~大阪狭山市駅間)

南海高野線(狭山駅~大阪狭山市駅間)「煉瓦造暗渠群(れんがぞうあんきょぐん)」

南海高野線、狭山駅と大阪狭山市駅との間には築堤(ちくてい)があり、レンガ構造物を見かけます。

これは高野線の開業当時に築造された古いものであり、東池尻ではこの構造物を暗渠(あんきょ)と呼んでいます。

狭山駅から大阪狭山市駅の間に、暗渠は全部で7ヶ所残っています。

葛西神社のこと

狭山藩-(24)
現在、狭山藩陣屋跡の案内板が、府道198号線河内長野美原線の狭山東小学校北約300メートル地点に建てられています。

※ミニ公園、ポケットパークに建てられている。

江戸時代、このあたりには北条氏の治める狭山藩の陣屋がありました。

 

ひがしばた
狭山藩は小大名のためお城を築くことは許されなかった。

 
明治の廃藩置県後、その上(かみ)屋敷跡に、もと北条家の家臣たちによって、北条氏の先祖の霊を祀るために葛西神社が造られ、地区では通称「弁天さん」と親しんでいました。

少年時代の私たちの喜びは、葛西神社境内で兵隊ごっこをして遊ぶことでした。

地区で「弁天さん」と呼んだわけは、主祭神として市杵島姫命(いちきしまのひめのみこと)をお祀りしてあったのですが、本地垂迹(ほんじすいじゃく)によると、市杵島姫命は弁財天(弁天)にあたるためです。

※古代インドの女神です。

葛西神社の葛西の読みは「かさい」または「かっさい」です。

桑と蚕(かいこ)

参考:桑の実

話はかわりますが、小学校の始業前に「桑の実」を食べたりしました。


桑の木は、府道の東側、笠原さん宅の向かい側、東小学校と南海高野線ガードの中間あたりにありました。

※笠原さんは、旧藩士の家系で藩医であった。

参考:蚕の繭

桑の木があった理由は「養蚕所(ようさんじょ)」があったからです。

蚕のエサが桑の葉

実は葛西神社(弁天さん)の境内の中で、蚕(かいこ)を飼育していました。

桑畑は、現府道の東側にありました。

前述の桑の木がその名残です。

【注記】「狭山藩陣屋跡」について

府道198号線、狭山東小学校より北に約300m、府道西側に


「狭山藩陣屋跡」と刻された石碑があります。

上屋敷

狭山藩陣屋上屋敷

ここには、江戸時代北条家上屋敷(政務をとったいわば公邸・藩庁・御殿)がありました。

明治の頃には葛西神社が造営され、昭和期には狭山幼稚園(現狭山東幼稚園の前身)となりました。

下屋敷

狭山藩陣屋下屋敷

なお下屋敷ですが、現在の「さやか公園」あたりにかつて存在しました。

下屋敷はいわば、殿様の私邸と考えたらよいでしょう。


狭山藩は小藩のため、城は持てませんでした。

「陣屋」つまり藩庁を持つにとどまりました。

上屋敷は当時「池尻村」、下屋敷は「半田村」でした。

 

当記事の元となった「郷土誌ひがしばた」内「昭和初期の東池尻の想い出」は、山村 茂樹さん・小谷 安之祐さん(監修)が作成されました。

 

東池尻地区会 区長
山村 歳幸

文化財産委員会
岡本 典久・鳥山 喜代治・鳥山 勉・森田 勇・山村 茂樹

表紙絵
市川 敬一



ハートマークを押すと
この記事が『みんなの「いいね」記事』に投票されます(^^)/
7+

ABOUTこの記事をかいた人
東池尻地区会(東池尻文化財委員会)

大阪狭山市東池尻地区に配布された「郷土誌 ひがしばた」の内容を、東池尻地区会(東池尻文化財委員会)様の許可を得て掲載しています。※紙媒体からWEBサイトへの転載にあたり一部、びこ編集部にて編集・補足しております。ご了承ください。※カラー写真(イラスト)は、大阪狭山びこ編集部が追加掲載したものです。
掲載内容は2020年11月18日(水)時点の情報です。
郷土誌ひがしばた

Twitterで大阪狭山びこを

大阪狭山市イベント情報まとめ
お店・イベント情報・セール・キャンペーン情報掲載お申込み
広告スポンサー募集中
【大阪狭山市】テイクアウト・デリバリー店まとめ